梅林秀行さんと歩くシリーズ#2後編 細川藤孝や忠興が生きた時代を感じる町へ

『ブラタモリ』などテレビ番組でもおなじみ京都高低差崖会崖長・梅林秀行さんに、長岡京市の魅力を案内してもらう第2回目の後編。前回は細川忠興と明智光秀の娘・ガラシャが結婚式を挙げ、さらに新婚時代を過ごしたという勝龍寺城を歩きましたが、後編は周辺を丁寧に歩いていきましょう。


【今回のダイジェスト版】

時の権力者もビックリ!長岡京市民の底力を感じる遺構

梅林 あーいいですね!この風景いいなあ。これはね、恐らく細川藤孝が入る前の自衛集落だった頃の堀、環濠集落(周囲に堀をめぐらせた集落)といっていいのかなあ、その跡ですね。素晴らしい。現地を歩くと、どんどん見えてきますね。すっごく楽しいです!!

― 勝龍寺城は関ケ原の戦いの少し前、細川藤孝・忠興が丹後に移った2年後、1582年に落城するんですよね。

梅林 そうですね。ほら、明治42年の地図を見ても勝龍寺城が無くなった後の勝龍寺の集落がそのまま残っていることが分かります。
この町は勝龍寺城が落城した後もずっと集落としての形の方がしっかり残っているので、ここは城下町というより、元々の生活する町としての力の方が強い所なんですね。

― この町は支配者が変わっても自分たちは変わらない! という土地柄ということですね。たくましいな~。

梅林 そうですねー。その後、城は竹藪となり、地域の人が薪や竹など燃料や資材を取りに行く場所になったんでしょうね。


織田信長や細川藤孝の時代の息遣いを感じる

梅林 あ、勝龍寺が見えてきました。付近の小さな城主たちが集まって連合体を作っていた頃、この寺自体が「勝龍寺城」とも呼ばれ、連合体の拠点になっていたのではないかと考えられています。ここで連合体の会議を開いたり、応仁の乱では、どちらに付くとか相談したりしていたんでしょうね。

―みんなが集まりやすい、集まりたくなるような所だったんですね。

梅林 勝龍寺城から歩いてくると感動します。この寺も残ったんだなあ。寺も細川藤孝に付いて宮津に行ってもよかったのに行かなかったんですね~。藤孝と元々の地域住民の微妙な緊張関係を表わすようですね。
今日、実際に歩いてみて、その時代の空気感がものすごく感じられました。歩くと色々な発見があって面白いですね。うーん、味わい深い。

梅林 あ、この仏像いいなあ。ご住職のアート心がいかんなく発揮されていますね。長岡京市の隠れ文化財に指定したいですね!

梅林 こちらが氏神の春日神社ですね。あ、いい狛犬!かわいいいなあ。これ、和泉砂岩っていって大阪の和泉の方で採れる砂岩で、加工しやすい反面、崩れやすいんです。いやー、ふんわりした雰囲気がいいですね。独特のテクスチャーですね。
境内に公民館がある。うーん、勝竜寺城ではなくて勝龍寺にあるのがいいですね。中世回帰ですね。

― そこはずっと曲げないんですね。

梅林 はからずも住民自治の伝統を踏まえていますね。長岡京市ってウニールがあったり、おしゃれで住みやすいし、きれいな町のイメージがあって僕も住んでみたいですけれど、ちょいちょい歴史の顔を見せますね。この辺が「かしこ暮らしっく」の「クラシック」な部分ですね。
さて、ここから大門橋へ行きましょう。


長岡京市のキモとなる場所?!

― あ、大門橋ですね。モニュメントがありますよね。

梅林 小畑川が桂川に注いで、その桂川が今度は木津川、淀川と合流して、向こうに男山があってと、色々な種類の地形が一か所に集まっている感じ。ここは長岡京市の中でもキモかもしれませんね。長岡京市はこういう地形の所に立っているんですね。
ここの説明書きには勝龍寺城の大手門跡と書いてありますが、今の研究だと神足神社の近くにある東大手門が本来の大手門で、ここは勝龍寺の門、あるいは集落の正面入り口といわれています。それでも大門という名前がちゃんと橋に残っているのがいいですね。

― お弁当食べたくなるような眺めですね。

梅林 ここからもう一度、城の横を通って神足神社へ向かいましょう。

― 前回もそうでしたが色々と知ると、景色が全く変わって見えるんですよね。もうこの辺にある石も全て堀跡なんじゃないかと思って怪しく見えてきちゃいました。

梅林 ほんまに怪しく見えますね(笑)。いやー長岡京市は面白いですね。最近、訪れた土地の中ではかなり面白いです。


まさか! あんなところに神足城の土塁跡を発見! 

梅林 神足神社付近ですね。この辺が長岡京地域における人が住める最南端だったところです。田んぼは作れるけれど湿地なので人は住めない。なんとか住める微高地の一番末端に神足城があるんですね。

― 砦みたいな感じだったのでしょうか。



これ見てください。参道のすぐ左横の道が90度に曲がっているでしょ。これは2014年についに発見された神足城の土塁の跡です。細川藤孝が勝龍寺城を拡張する前、ここに神足氏が住んでいた正方形の館、神足城があったのですが

梅林 調査報告書を読んで面白かったのが、細川藤孝は勝龍寺城を拡張する時、神足城を自分の城の敷地内に取り込んだ上、神足城の土塁の一部を自分の城の土塁に使うんです。普通はあまりやらないですね、こういうこと。
ですから今、我々が見ているのは神足城の土塁と神足城を取り込んだ後の勝龍寺城の土塁という二重になったものを見ています。

― 攻められた上に自分の城の一部を使われるなんて、神足氏は相当嫌だったでしょうね。

梅林 やられた方の神足氏はムチャクチャ屈辱的だったでしょうね。だから細川藤孝というのは、ある面において、そういう(嫌な)存在だったんじゃないですかね。近くの物集女城もガンガン攻めていますし。当時、織田信長は「切り取り次第」といって、自分の領地は自分で敵を攻め滅ぼして作りなさいと指示しているので、藤孝もそうしたんでしょうね。

― 神足神社の裏も回れますね。

梅林 神足神社の境内はまるまる高台になっていて、さっきの沼田丸みたいな雰囲気なんですよ。勝龍寺城の鬼門の位置に当たるから城内区画の一部として神足神社が再整備されたのかなあ。
勝龍寺城の北の堀はどの辺にあたるんだろう。こうやって自分で発見するのも楽しいんですよね。

梅林 あ!! あった! あの段差がそうですよ。あれが土塁の跡ですね。

― テニスコートの中で生かされていますね!! しかも土塁跡がコンクリートで固めてある(笑)。

梅林 ここが勝龍寺城の北限ラインだ!

― こういう所って公園とか駐車場になりやすいんですね。

梅林 城跡って特定の個人の所有になりにくいですから、大体、公有地になりますね。

梅林 あ、これは調査中に見つかった南北方向の堀ですね。

― 上から見ることができるのが面白い! 形がよく分かりますね。

梅林 しかも断面はおしゃれなことしていますね。この壁を見ると堀のために掘削した土を外側から積み上げていることがわかりますね。こうやって積みかさねることで強度が増すんです。これは古墳を作る時から同じ在来工法ですね。この土塁前の道路が堀の跡にあたります。

ここから西国街道までいってみましょう。

― 今回、じっくり歩いてみて、細川藤孝や明智光秀の時代の姿が見えてきました。

梅林 歴史からいうと細川家も宮津に移りますし、江戸時代には勝龍寺城はなくなります。その後ここは農村と街道沿いの町になり、特定の大名が現れない、江戸と大阪を結ぶ西国街道を結ぶ町になっていくという形がよく分かりますね。長岡京市の西国街道一帯の変遷がよく分かります。まち歩きってホントに面白いですね!

本日歩いた歩数6000歩!!


撮影:岡タカシ

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