【長岡京ガラシャ祭コラム②】戦国家族はつらいよ〜武士の娘はつらいよ編〜

前回の「武士の息子はつらいよ編」では、お家のために人生を捧げざるを得なかった武家男子のつらい実情をお伝えしましたが、つらくて大変だったのは女子も同じ。いえ、それ以上だったかもしれません。

長岡京ガラシャ祭のヒロイン・細川ガラシャ(玉)をはじめ、一見優雅に見える武家のお姫様たちもまた、哀しい運命(さだめ)を背負って生きていたんです。


恋も結婚もままならず“つらいよ”

現代女性にとって結婚とは、交際を経て自分が決めた人とするもの、ですよね。しかし、戦国の姫君にそんな選択肢は一切ありませんでした。結婚はもっぱら、敵対する勢力同士の和睦や臣従のため、同盟関係を締結するため、さらに主君と家臣の主従関係を強化するための手段として、親同士が決めていたからです。細川ガラシャ(明智玉)と細川忠興の結婚も、父・明智光秀が主君の織田信長の勧めに従って決めたものだったともいわれています…。


争いに巻き込まれて“つらいよ”

もちろん政略結婚を強いられたからといって、お姫様がみんな不幸だったわけではないんですよ。長岡京の勝龍寺城で結婚生活をスタートさせた細川忠興・ガラシャ夫妻は大変仲睦まじく、結婚後まもなく子宝にも恵まれて幸せな日々を送っていたそうです。ただ、それも長くは続きませんでした。ご存知のとおり、明智光秀が本能寺の変というクーデターを引き起こしたために、ガラシャは逆臣の娘となり、丹後の山奥に幽閉されてしまったのです。

このように戦国のお姫様は、事あるごとに武士の覇権争いに巻き込まれ、ときには命の危険にさらされました。ガラシャが心の拠り所を求めてキリスト教を信仰したのもわかる気がしますね。


未亡人になっても“つらいよ”

細川ガラシャは慶長5年(1600年)、夫の留守中に敵対していた石田三成の軍勢に屋敷を襲撃され、人質になることを拒んで家来の手により命を絶ちました。夫よりもずっと早くこの世を去りました。一方、戦や病気などで夫に先立たれた場合、妻はまたもや人生の大きな岐路に立たされるハメに……。未亡人のまま暮らすことは許されず、多くの場合、夫の菩提を弔う出家コース、もしくは親類縁者の勧めで再婚コースをたどりました。また、男の跡継ぎが誰もいないときに、亡き夫の跡を継ぎ、女城主となった例もあります。仕えるべき相手がいなくなっても自由に余生を送れないなんて、お姫様もつらいよ!


武家の男子もさることながら、木の葉のように翻弄されっぱなしのお姫様の人生も決して楽なものではなかったこと、おわかりいただけたでしょうか。こんな実情を知ると、細川ガラシャにとって貴重な幸せのひとコマを再現した、ガラシャ祭お輿入れ行列にジーンと来てしまいそうですね。行列に登場する戦国ファミリーの面々に会いに、長岡京ガラシャ祭へ出かけましょう。

□■infomation■□

長岡京ガラシャ祭2018 

11月11日(日曜日)行列巡行

イラスト:かたおか朋子

参考文献:成美堂出版『戦国の合戦と武将の絵辞典』より

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